人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ネコな海老 nekoebi.exblog.jp

ネコな海老


by neko_ebi

ファー・ブルトンを焼いた

ファー・ブルトンを焼いた_f0142623_511633.jpg
夜、思い立ってお菓子を焼いた。ファー・ブルトンを。
マリ・テレーズのやさしい声が耳に蘇った。

「トレ・ビアン」
マリ・テレーズはいつもそっと小さく呟く。

「トレ・ビアンよ、ユキ。トレ・ビアン」
そして必ず、もう一度繰り返す。私に言い聞かせるように少しだけ強く。

マリ・テレーズはホストのお母さんで、
ファー・ブルトンはブルターニュの郷土菓子だ。



3軒目の農場の朝は8時15分に始まる。
早めに支度をすませキッチンに降りると、マリ・テレーズがその日の食事やお菓子、
鶏にやるエサの準備をしている。窓の外はまだ暗い。

「今日はファーを作るの。さあ、これを混ぜて」
ボウルに小麦粉と砂糖、卵が用意されていた。
使い込まれた木ベラを右手に握りしめ、私は生地を丹念に混ぜる。

「トレ・ビアン。次はミルクを加えて。最初はちょっとだけよ」
マリ・テレーズが分量を量ったミルクを受け取り、そっと生地に加える。

「トレ・ビアン。もう少し加えて」
マリ・テレーズの声に従い、私はミルクの入った容器をさらに傾ける。

「トレ・ビアン。全部加えていいわ」
マリ・テレーズの指示を聞き逃して、少しだけ、ミルクを加えた。

「全部。全部、全部。全部よ」
ぴしゃり、とマリ・テレーズが叱る。

空になったミルク容器に、マリ・テレーズは少しだけ水を足す。
くるりくるりと2回ほど水を回し、容器の側面に付いた生地を水で落として、
「これは後で使うのよ」
そう言って、いましがた混ぜ終えた生地を耐熱容器に移すように促す。

「プルーンを4等分に切って」
しっとりやわらかいドライプルーンを、私は4等分に切る。

「耐熱容器をオーブンに入れて。熱いから手に気をつけて」
マリ・テレーズが見守るなか、液をこぼさないようオーブンへ。

「プルーンを両端に2列に落として」
ぴたぴたと手にくっつくドライプルーンを、ひとつづつ液に沈める。

「最後にレーズンを散らして。これは真ん中に」
キレイな瓶に入った薄い黄緑色のレーズンを一握り掴んで、
生地の中にポトリポトリと沈めた。

最後に、空になったミルク容器に足した水を生地に加える。
マリ・テレーズは食べ物の無駄をしない。
ヘラに付いた生地もボウルの最後の1滴もくまなく加えて、オーブンの扉を閉める。
そしてタイマーをセットする。20分。

「トレ・ビアン」
マリ・テレーズは言った。

「トレ・ビアンよ、ユキ」
マリ・テレーズは続けて、今度は私を見て言った。

「それじゃあ、また後でね」
私はマリ・テレーズの賛辞を胸に抱いて玄関を出た。
昼食の後に出る手作りのファー・ブルトンを思い浮かべながら、
まだ太陽の上がらない空の下、ヤギ小屋へと向かった。

++

東京で料理雑誌を買ったら「ファー・ブルトン」のレシピがあった。
マリ・テレーズのレシピより砂糖の分量が2倍多くて、
マリ・テレーズが使わなかったバニラビーンズを使っていて、
マリ・テレーズは使わなかったバターを少しだけ使っていた。

「焼き時間? そんなのオーブンの温度次第よ。大体20分くらいかしら」
マリ・テレーズはそっけなく言ったけど、
料理雑誌には200度で60分、その後上火250・下火235度で10分とある。

マリ・テレーズは耐熱容器にそのまま生地を流したけど、
有名シェフのレシピでは、バターを塗ってグラニュー糖も塗るらしい。

マリ・テレーズがそばにいるととても簡単で、
「毎朝だってケーキを焼けちゃうかも」と思ったのに、
有名なシェフのレシピに目を落とすと、
「お菓子作りはやっぱり向いてない」と途端に腰が引けてしまう。

それでも無性に作りたくなって、夜中にファー・ブルトンを焼いた。
有名シェフのレシピを元に。

「あ、やっぱ面倒だな」と思うたびにマリ・テレーズを思い出した。
気張らなくていいんだ。混ぜて焼くだけだ。

「バニラビーンズないな・・・」
大丈夫。マリ・テレーズは使ってなかった。

都合よくマリ・テレーズの手順を引っ張り出してファー・ブルトンを焼いた。
まだまだ朝はやってこない夜のキッチンで。

「トレ・ビアンよ」
と言ってくれる人は隣にいないけど、
もしも隣にいたら、きっとマリ・テレーズは言う。
「トレ・ビアンよ、ユキ」って。

マリ・テレーズに会いたいな。

震える手で材料を混ぜるのは大変だろうな。代わりに私がやってあげたい。
夜中の咳は止まったかな。本当は背中をさすってあげたかったな。
そんなに腰が曲がってて、どの作業もとても時間がかかるのに、
100キロもスピード出して車を運転しないでね。心配だから。

いまはどこの国の誰が手伝いをしてるかわからないけど、
マリ・テレーズの朝を、誰かが一緒に過ごしているといいな。
優しい賛辞を受けながら、誰かが何かを作っているといい。

マリ・テレーズが「トレ・ビアンよ」って隣で褒めてくれるなら、
私は毎日だってお菓子を焼くのに。
by neko_ebi | 2010-02-02 05:11 | 家ごはん