ラブレターを書いた。
フとしたすれ違いを埋めたかったのと、想いを伝えたいためだ。
自分は間違えてないと主張する私。予約帳を前に電話を受けるので、自分たちが間違うことは考えにくいと説明するお店。電話越しに互いの不安定な空気を読みながら、いくつかのやりとりをした。私は一切引かなかった。自信が200%ぐらいあったのだ。「調整してみます」、その声を聞いて電話を切った。
翌日、この一件を改めて考察してみた。
話変わって、例えば人の名前や映画のタイトルを思い出すとき、「○○じゃない? 絶対にそうだよ」という私の意見は、おおむね間違えている。うん…。ものすごく自信があったのに自信を喪失することがある。自分の“絶対”が大きく揺らぐ。
あえなく結論:自信なんて、とても不確か。
すぐにお店に手紙を書いた。「自分の“絶対”はとても不確かである」「だから無理をしないでほしい」「今回行けなくても、次回の予約を必ず入れるし、いずれにしても楽しみな気持ちに変わりはない」
私とお店のどちらにミスがあったかはわからない。でも仮にお店のミスだったとしても、無理をした状況でルンルン気分で食事する状況を想像できなかった。だから「無理をしないで」というのは、結局は自分のための言葉だった。
翌日、電話が来た。「お席をご用意できます」「手紙を読みましたか?」「はい。ご丁寧にありがとうございました」。あるグループで人数の変更があったので気にせずお店に来てほしい、という。感謝の気持ちを伝えて電話を切った。
手紙がなかったとしてもおそらく同じ対応だっただろう。でも、もしも手紙に込めた気持ちが少しでも影響しているなら、それはとても嬉しいことだと思った。あなたのお店で楽しい時間を過ごしたい。伝えたかったのは要するにそれだけで、それは300%ぐらいの満足度で叶えられた。
金曜日の夜、そのお店はほぼ2回転していた。終始お客さんの歓喜に満ちていた。
楽しかった・嬉しかったという気持ちはどんどん伝えていくべきだと思う。お店にとっても自分にとってもいいことづくしだと思っている。お礼状というと形式めいた気がするけれど、ラブレターと考えるととてもスムーズにできてしまう。
考えてみると、お店へのラブレターをしばしば書いていることに気付いた。旅先で寄った店、感慨深い出来事のあった店、ずっとお客さんでいたいと強く願った店、とか。
そうか、自分は人以外にもラブレターを書いていたんだね。
だから私は、ラブレターを書く。人じゃなくても、もちろん人でも。
こんなことを書いていたら、ラブレターを出しそびれているお店があることに気づいた。あんまり近くにありすぎてうっかりしていたけど、そうだ、書かなくちゃ。
【追伸】
ラブレターを書くのは好きだけど、もらうのも好き。
さあさ、ペンをとってよ。
【もひとつ追伸】
たこフェリーはすばらしかった。明石焼きって玉子焼きって言うって知ってる? 1キロのホルモンは多すぎた。焼いても焼いても減らなくてしまいには隣の兄ちゃんにあげた。大阪では串焼きのことを何ていうんだっけ? 明石の市場で買ったハリイカに恋焦がれている、写真はタコだけどね。
【そしてまた追伸】
明日起きたら、「なんでこんな日記書いちゃったんだろう?」って思うに違いない。
お酒飲んで忘れちゃおっと。