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ネコな海老


by neko_ebi
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ファー・ブルトンを焼いた

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夜、思い立ってお菓子を焼いた。ファー・ブルトンを。
マリ・テレーズのやさしい声が耳に蘇った。

「トレ・ビアン」
マリ・テレーズはいつもそっと小さく呟く。

「トレ・ビアンよ、ユキ。トレ・ビアン」
そして必ず、もう一度繰り返す。私に言い聞かせるように少しだけ強く。

マリ・テレーズはホストのお母さんで、
ファー・ブルトンはブルターニュの郷土菓子だ。



3軒目の農場の朝は8時15分に始まる。
早めに支度をすませキッチンに降りると、マリ・テレーズがその日の食事やお菓子、
鶏にやるエサの準備をしている。窓の外はまだ暗い。

「今日はファーを作るの。さあ、これを混ぜて」
ボウルに小麦粉と砂糖、卵が用意されていた。
使い込まれた木ベラを右手に握りしめ、私は生地を丹念に混ぜる。

「トレ・ビアン。次はミルクを加えて。最初はちょっとだけよ」
マリ・テレーズが分量を量ったミルクを受け取り、そっと生地に加える。

「トレ・ビアン。もう少し加えて」
マリ・テレーズの声に従い、私はミルクの入った容器をさらに傾ける。

「トレ・ビアン。全部加えていいわ」
マリ・テレーズの指示を聞き逃して、少しだけ、ミルクを加えた。

「全部。全部、全部。全部よ」
ぴしゃり、とマリ・テレーズが叱る。

空になったミルク容器に、マリ・テレーズは少しだけ水を足す。
くるりくるりと2回ほど水を回し、容器の側面に付いた生地を水で落として、
「これは後で使うのよ」
そう言って、いましがた混ぜ終えた生地を耐熱容器に移すように促す。

「プルーンを4等分に切って」
しっとりやわらかいドライプルーンを、私は4等分に切る。

「耐熱容器をオーブンに入れて。熱いから手に気をつけて」
マリ・テレーズが見守るなか、液をこぼさないようオーブンへ。

「プルーンを両端に2列に落として」
ぴたぴたと手にくっつくドライプルーンを、ひとつづつ液に沈める。

「最後にレーズンを散らして。これは真ん中に」
キレイな瓶に入った薄い黄緑色のレーズンを一握り掴んで、
生地の中にポトリポトリと沈めた。

最後に、空になったミルク容器に足した水を生地に加える。
マリ・テレーズは食べ物の無駄をしない。
ヘラに付いた生地もボウルの最後の1滴もくまなく加えて、オーブンの扉を閉める。
そしてタイマーをセットする。20分。

「トレ・ビアン」
マリ・テレーズは言った。

「トレ・ビアンよ、ユキ」
マリ・テレーズは続けて、今度は私を見て言った。

「それじゃあ、また後でね」
私はマリ・テレーズの賛辞を胸に抱いて玄関を出た。
昼食の後に出る手作りのファー・ブルトンを思い浮かべながら、
まだ太陽の上がらない空の下、ヤギ小屋へと向かった。

++

東京で料理雑誌を買ったら「ファー・ブルトン」のレシピがあった。
マリ・テレーズのレシピより砂糖の分量が2倍多くて、
マリ・テレーズが使わなかったバニラビーンズを使っていて、
マリ・テレーズは使わなかったバターを少しだけ使っていた。

「焼き時間? そんなのオーブンの温度次第よ。大体20分くらいかしら」
マリ・テレーズはそっけなく言ったけど、
料理雑誌には200度で60分、その後上火250・下火235度で10分とある。

マリ・テレーズは耐熱容器にそのまま生地を流したけど、
有名シェフのレシピでは、バターを塗ってグラニュー糖も塗るらしい。

マリ・テレーズがそばにいるととても簡単で、
「毎朝だってケーキを焼けちゃうかも」と思ったのに、
有名なシェフのレシピに目を落とすと、
「お菓子作りはやっぱり向いてない」と途端に腰が引けてしまう。

それでも無性に作りたくなって、夜中にファー・ブルトンを焼いた。
有名シェフのレシピを元に。

「あ、やっぱ面倒だな」と思うたびにマリ・テレーズを思い出した。
気張らなくていいんだ。混ぜて焼くだけだ。

「バニラビーンズないな・・・」
大丈夫。マリ・テレーズは使ってなかった。

都合よくマリ・テレーズの手順を引っ張り出してファー・ブルトンを焼いた。
まだまだ朝はやってこない夜のキッチンで。

「トレ・ビアンよ」
と言ってくれる人は隣にいないけど、
もしも隣にいたら、きっとマリ・テレーズは言う。
「トレ・ビアンよ、ユキ」って。

マリ・テレーズに会いたいな。

震える手で材料を混ぜるのは大変だろうな。代わりに私がやってあげたい。
夜中の咳は止まったかな。本当は背中をさすってあげたかったな。
そんなに腰が曲がってて、どの作業もとても時間がかかるのに、
100キロもスピード出して車を運転しないでね。心配だから。

いまはどこの国の誰が手伝いをしてるかわからないけど、
マリ・テレーズの朝を、誰かが一緒に過ごしているといいな。
優しい賛辞を受けながら、誰かが何かを作っているといい。

マリ・テレーズが「トレ・ビアンよ」って隣で褒めてくれるなら、
私は毎日だってお菓子を焼くのに。
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by neko_ebi | 2010-02-02 05:11 | 家ごはん